私たちは日々、頭の中で絶え間なく続く独り言や、過去への後悔、未来への不安といった思考の流れの中で生きています。
エックハルト・トールの教えは、この思考の流れこそが、私たちの苦悩の根本的な原因であり、この思考から解放されることこそが心の自由への第一歩だと説きます。
「思考=自分」という思い込みから苦しみが始まる
「考えている私」が本当の私だと思い込む罠
ほとんどの人は、自分が考えていること、感じていることが「自分自身」だと信じ込んでいます。
哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という名文句は、思考活動によって自分のアイデンティティを確立するという初歩的な誤りを犯しているとトールは考えます。
私たちは「私は考える」ということを「在るということ」と等しく見なしてしまうため、頭の中に流れる声に完全に注意が奪われ、その声の内容を「自分の考え」だと信じ込むことで、心がその思考に支配されてしまうのです。
この思考と自己との同一化によって生まれるのが、「偽りの自己」(幻の自己)エゴと表現されています。
エゴの正体
エゴとは、自己同一化された思考や信念の集合体であり、過去によって条件付けられた心が作り出した「偽りの私」です。
エゴは常に、「私は〇〇です」と自己認識するための「餌」を探しています。
この「私」は、好き嫌いや恐れ、願望のある私であり、決して満足することのない私です。
構造的な問題
多くの人々は、思考が作る小さな「私」を自分だと思い、恐れの中で生きています。
思考が主人となっているとき、心は常に過去への後悔や未来への不安という心理的時間を行き来しており、「いまこの瞬間」を見失わせてしまいます。
時間の罠
エゴは「いま」に在ることができないため、過去にアイデンティティを与え、未来に救済の約束を与えることで生き延びています。
思考と一体化し、「いまのパワー」を失って「いまに在る」生き方を忘れてしまうと、恐れが常に付きまといます。
思考は絶え間ない騒音であり、この騒音が心の平安の境地に到達するのを妨げているのです。
トールが気づいた瞬間 ― 「私は私をもう耐えられない」
思考が崩れ、沈黙の中に残った「気づき」
トール(当時はウルリッヒという名)は、かつて深い精神的な苦痛と絶望に苛まれていました。
彼はある夜、耐えきれないほどの悲痛な思いに押しつぶされそうになりながら、ふと「こんな自分と生きていくなんてまっぴらだ」と感じました。
その瞬間、彼は自分と、その自分を一緒に生きていきたくないと感じているもう一人の自分がいることに気づきました。
突然、「自分はひとりなのか、それともふたりなのか?」という奇妙な感覚に気づきました。
もし、思考=自分だったとしたら自分自身に「お前とは生きていけない」と宣言することはできません。
絶望的な自己を拒絶し、それを見ている何か(もう一人の自分)の存在に気づいたのです。
この気づきが起こった途端、頭の中をぐるぐると回っていた思考がピタリと止まり、意識ははっきりしているにもかかわらず、思考のない状態(無の状態)になったのです。
思考が止まると、存在が現れる
思考が停止した後、トールはまるで竜巻のようなすさまじいエネルギーの渦に引き込まれていく感覚を経験し、それに抵抗することなく身を委ねました。
翌朝、彼は小鳥のさえずりや朝日、目の前にあるすべてのものが愛そのものであると感じ、とめどもなく涙が溢れました。
彼は、見るものすべてが新鮮で、生命が存在する奇跡に感動し、その後の5ヶ月間を何者にも揺らぐことのない深い平和と幸福に包まれて過ごしました。
そこにあったのは「自分そのもの」
この体験は、思考という「偽りの自己」が崩壊したことで、その奥に隠されていた「本当の自分」が姿を現したことを意味します。
この状態は、心の平安、沈黙、または「あることの喜び」として感じられます。
それは、意識を失った恍惚状態ではなく、思考と一体となっている時よりもはるかに鋭敏で覚醒した意識の状態です。
思考が止まったとき、そこに残ったのは、名前や形を超えた純粋な意識、つまり大いなる存在としての「自分そのもの」だったのです。
「思考を観る」ことが自由の始まり
「気づいている私」に立ち戻る練習
思考の束縛から解放されるための最初のステップは、「できる限り思考の声に耳を傾けること」、つまり思考を客観的に眺めることです。
これは、頭の中の絶え間ない「独り言」や繰り返されるネガティブな「古いレコード」に注意を向ける行為です。
この実践を続けるうちに、「独り言をする声」と「それを聞き、観察している本当の自分」がいることに気づき始めます。
この「本当の私」の感覚は思考とは別の、思考を超えた源泉から発せられています。
思考を止めるのではなく、気づきの光を向ける
思考を観察する際には、その内容を批判したり分析したりする必要はありません。
批判もまた、エゴによる「応戦という形の思考の声」にすぎないからです。
大切なのは、思考を無理に押さえつけたり止めたりしようとするのではなく、思考に対して「気づき」という光を向けることです。
この観察の行為によって、「思考」と「観察している自分」との間に隙間(空間)が生まれ、思考に巻き込まれずに済むようになります。
ペインボディ(過去の感情的な痛みのエネルギー体)やエゴが活性化しているときでも、「これは私ではなく、エゴ/ペインボディが反応しているのだ」と認識し、観察の光を当て続けることで、それらはエネルギーを失い、やがて溶けていきます。
「思考=自分ではない」と理解した瞬間の変化
思考を観察し、「思考=自分ではない」と理解した瞬間、あなたの意識は新たなレベルに到達します。
思考はパワーを失い、無駄な活動が減り始めます。
思考が止まり、無心状態(思考のない静けさ)が生まれると、普段は思考にかき消されている心の平安を実感します。
この心の静けさこそが、大いなる存在との一体感であり、状況がどうであれ変わることのない深い喜びと愛が溢れ出てきます。
必要なときには、思考力は的確に役目を果たします。
それはもはや利己的な活動ではなく、本当の自分という偉大なる英知が頭脳を活用し、自己を表現する道具となるのです。
思考を超えた場所に本当の私がいる
思考は敵ではなく、単なるツールです。
それに気づかないとき、私たちは過去と未来の物語に囚われ、思考に支配されます。
しかし、「気づいている私」として思考を見つめるとき、心の中に沈黙と静かな自由が現れます。
思考は去り、存在だけが残る――そこに、苦しみのない「本当の私」がいます。
「生きることの秘訣は、肉体が死ぬ前に“死ぬ”ことである。」
エックハルト・トール
(ここでいう「死」とは、偽りの自己(エゴ)の終わりを意味します。)
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