私たちは、人生の苦しみから解放され、心の平安を求めてスピリチュアルな教えに触れることがあります。
しかし、エックハルト・トールは、その「目覚めたい」「悟りたい」という願いすら、実は私たちの苦しみの源である「エゴ(幻の自己)」に取り込まれてしまう可能性があると警告します。
エゴとは、思考と自分を同一視することで作られる「偽りの自分」 であり、その構造を理解しなければ、スピリチュアルな追求も、心の平安ではなく、かえって「スピリチュアル・エゴ」という新たな優越感を生み出す罠になりかねません。
精神的所有の罠
思考との同一化が「幻の自己」を生む
エゴは、私たちが本来の生命(意識)「幻の自己」 として、思考活動によって作られる精神的な構築物です。
私たちは、自分の名前や職業、あるいは見解や判断といったあらゆる「形(フォーム)」と自分を同一視することによってエゴを拡大させます。
エゴが作られる過程で最も大きな誤りの一つが、「思考活動によって自分のアイデンティティを確立する」 ことです。
この思考の流れが、すべての思考に影響を与える私たちの心のベースとなります。
物質から精神へ、アイデンティティの転換
エゴは、物質的な所有物(家、車、地位など)に執着し、それを自己意識の強化の手段とすることが最も基本的なパターンです。
しかし、トールは、エゴは物質的なものだけではなく、精神的な自己イメージにも同一化すると指摘します。
物質的な所有を手放しても、エゴは巧妙に形を変えて生き延びようとします。その一つの形態が「精神的所有物」です。
例えば、「私は物質的なものの所有を捨てた」 という優越感や「私は他の人より優れたスピリチュアリティを持っている」 という自己イメージ。
「自分は目覚めている人だ」「自分は悟った人だ」という概念を作り、そのイメージ通りに生きようとするのも、エゴの無意識が演じる一つの役割にすぎません。
エゴにとって重要なのは、「何かに同一化している状態」そのものであり、その対象が物質であろうと精神的な信念であろうと構わないのです。
「私は優れている」という比較の構造
スピリチュアル・エゴは、優越感を通じて自らを強化します。
エゴが特定の精神的な立場や見解と自分を同一化しているとき、それは「自分が正しい」と主張します。
エゴが自分を強化するためには、誰かを「間違っている」と決めつけなければならないからです。
スピリチュアルな信念を「絶対的真実だと見なす一連の考え方」と完全に同一化するほどに、人は自分の中のスピリチュアルな面から切り離されていきます。
その結果、「自分だけが真実を知っている」と主張し、自分と信念に同意しない人を「間違っている」と断じ、他者との分離意識 を強化します。
また、他人の行動を批判することは、自分の方が倫理的に優位に立ったという想像を通じてエゴを強化します。
ゴシップや批判など、誰かに否定的な判断をするとき、その根底にはこの優越感が潜んでいるのです。
「悟りを求める」ことが罠になる理由
努力や目標達成もエゴの活動となる
エゴは常に欠乏感(「私は不十分だ」という感覚)の上に成り立っています。
そのため、何かを「得ようとする努力」そのものが、欠乏感から生まれています。
「悟りを開く」ことを将来の目標として努力することは、「未来に満ち足りた人生を求め、唯一のアクセスポイントである『現在』という瞬間を無視する」というエゴの習慣そのものです。
「目覚めよう」「悟りを開こう」と努力すると、それはエゴが目覚めを価値ある所有物として手に入れ、自分をもっと重要で大きな存在に見せようとする試みになってしまいます。
目標に向かって進もうとすればするほど、「今この瞬間」に不満を感じるようになり、内面的な葛藤が強まるだけなのです。
概念としての「目覚め」は偽りの役割
目覚めのプロセスは、自分で起こすことはできず、恩寵として始まります。
悟りは「ふさわしい人間になる」ことによって得られるものではありません。
「悟りを開こうと努力する」ことは、悟る代わりに「悟りという概念」を精神に付け加えてしまう結果になります。
「目覚めた人」「悟った人」はこうあるべきだというイメージを作り、そのイメージどおりに生きようとするのは、エゴの無意識が演じるもう一つの役割にすぎません。
この役割を演じている限り、あなたの本質ではなく、仮面を通して生きていることになります。
信仰や教義への固執は「集団的エゴ」を強化する
スピリチュアルな教義や特定の信仰に固執することも、エゴの罠となります。
自分が絶対的真実だと見なす一連の考え方(教義や信念)と自分を同一化するほどに、人は自分の中のスピリチュアルな面から切り離されていきます。
特定の宗教組織や宗派が、自分たちの主義主張に固執し、他の解釈を認めない姿勢は、閉鎖的な政治イデオロギーの信奉者と少しも変わらない。
これは、集団的エゴの自衛と反撃の構造 の一部となるのです。
スピリチュアル・エゴを溶かす「気づき」の力
「いまに在る」ことでエゴの居場所をなくす
エゴは、過去の記憶や未来の期待に依存し、「いまという瞬間」には存在できません。
したがって、スピリチュアル・エゴを乗り越える鍵は、「いまに在る」 ことです。
「いま自分がしていること、いまいる場所を人生の主要な目的と見なす」とき、あなたは心理的な時間を否定しています。
心理的な時間を否定することは、同時にエゴを否定することでもあります。
また、呼吸や身体の感覚に意識を向けるなど、「いまに在る」 意識でいる限り、思考活動は止まり、心に静けさが生まれます。
この静けさこそが、大いなる存在との一体感なのです。
エゴと戦うのではなく、意識という光を当てる
エゴを力ずくで排除しようとしたり、ネガティブな思考を止めようとしたりする努力は、かえってエゴの活動となり、苦しみを強めます。
エゴと戦っても勝ち目はありません。
闇と戦うことができないのと同じです。
必要なのは、意識という光を当てることです。
スピリチュアルな信念であれ、自己批判であれ、思考を客観的に眺めることが大切です。
「これはエゴの声だ」 と認識した瞬間、あなたは思考から離れ、「気づき」 そのものになります。
悟りは所有物ではなく「在り方」そのものである
スピリチュアルな目覚めとは、「自分がスピリットである」という信念ではありません。
スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え、感じている対象は、突き詰めてみれば自分ではないとはっきり見抜くこと。
悟りとは、大いなる存在と一つであること、そしてこの状態を保つこと こそが悟りなのです。
それは特別な心境ではなく、「いまに在ること」 そのものが悟りの本質です。
エゴを手放すとは、偽りの自己を脱ぎ捨てること。
真の自分は決して傷つかないことを発見し、心の平安という真の富を手に入れるのです。
思考を超えた領域で真の自由を得る
「スピリチュアルな目覚め」は、エゴが最後に獲得しようとする最も巧妙な「精神的所有物」になりえます。
真の自由は、あなたが特別な概念や信念を獲得することによって訪れるのではありません。
あなたが「悟ろうとする」努力を完全に手放し、ただ「いまに在る」ことを選んだ瞬間に、エゴは力を失い、心の奥底にある静けさ(心の平安)が姿を現します。
「さとろう」とする努力は、未来に目を向けてしまいます。それは逆に「さとり」から遠ざけるのです。大切なのは、ただ「いまに在る」こと。シンプルに、いまこの瞬間を意識することです。
エックハルト・トール
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