私たちはしばしば、頭の中で自分を批判し、責める声に苦しめられます。
「私はダメだ」「あの時どうしてああしなかったのか」といった内なる非難は、私たちの心の平和を奪い、深い苦悩を生み出します。
スピリチュアル・ティーチャーであるエックハルト・トールは、この自己否定の声の正体を突き止め、その声が「本当のあなた自身ではない」という真実を明らかにしました。
私たちの苦しみの原因は、外的な出来事ではなく、この否定的で強迫的な思考と自分自身を同一視してしまうという、根本的な錯覚にあるとトールは説きます。
この声の支配から解放され、内なる平和を手に入れることが、トールの教えの核となります。
自分を責める声の正体 ― 思考がつくる内なる批判者
「私はダメだ」と語るのは、意識ではなく思考
私たちの内側で「私はダメだ」「私は価値がない」と語りかけてくる声は、意識ではなく、思考のエネルギーの形にすぎません。
人間には、思考よりもはるかに深遠な意識の領域が存在しており、それこそが本当の自分の本質です。
しかし、ほとんどの人が、この頭の中の絶え間ない思考の流れと自分を完全に同一視しています。
その結果、思考はコントロールが効かなくなり、勝手気ままに活動し、不安や苦しみを抱える「偽りの自分」(エゴ的アイデンティティ)を作り出してしまうのです。
この「偽りの自分」こそが、絶えず自分自身を批判し、評価を下し続ける内なる批判者の正体です。
その声は過去の記憶と他人の評価の反響
この批判的な声は、過去の経験によって条件付けられた心の産物です。
エゴ(偽りの自己)は、常に「私は○○である」という自己イメージや固定観念を再創造しようとします。
この声が語るネガティブな物語は、過去の感情的な記憶や、他者(親、社会など)から受けた評価や否定的なレッテルを反芻しているにすぎません。
エゴは、自分を他人と比較することによっても強化されます。
優越感や劣等感を感じるとき、それはあなたの中のエゴが感じているのです。
エゴは、自分が優れていると感じたいがために、誰かを「間違っている」と決めつけます。
自分を責める声もまた、この比較と優越を求めるエゴの無意識的なパターンの一つなのです。
思考が「罪悪感」を維持するしくみ
自分を責める感情の代表格である罪悪感は、エゴが自己認識(アイデンティティ)を作ろうとする戦略の一つです。
エゴは、その自己認識がポジティブであろうとネガティブであろうと、どちらでも構いません。
あなたが過去の行動や行動し損ねたことに対し、「私はこうしてしまった」と個人的に受け止めることで、エゴは「私は悪い人だ」というイメージを持ち続けようとします。
罪悪感や後悔は、古い思考や感情というお荷物であり、この感情的な思考は、そのアイデンティティを強化するために、古い感情にしがみつくのです。
しかし、こうした行動は、個人だけの問題ではなく、人類の無意識状態の表出にすぎません。
罪悪感を抱き、自分を責め続けるのは、エゴがその痛みを自分の存在を維持するための糧としているからです。
否定的思考を“手放す”とは抑え込むことではない
「こんな考えを消したい」と思うことも思考の一部
自己否定の思考があまりに苦しいため、「こんな考えはいますぐ消したい」「このネガティブな感情をどうにかしたい」と強く願うのは自然なことです。
しかし、思考の問題は思考のレベルで解決することはできません。
思考を批判したり分析したりする行為、あるいは思考を無理に止めようとする行為そのものも、応戦という形の「思考の声」にすぎないのです。
「悟りを開こうと努力する」という行為さえも、その中にエゴが潜んでおり、未来に目を向けてしまうため、かえって「さとり」から遠ざけます。
思考を消そうとする努力は、結局はエゴが作り出した新たな思考であり、根本的な解決にはなりません。
抵抗が苦しみを強め、受け入れが癒しを生む
私たちの苦しみのほとんどは、出来事そのものではなく、「すでにそうであるもの」に対する抵抗や拒絶によって生み出されています。
思考は常に「いま」に文句をつけ、「こうあるべきだ」「こうすべきではない」という心の声で、人生そのものを敵に回しているのです。
この抵抗のエネルギーが、不幸と苦悩を増幅させ、エゴを強化します。
では、どうすればいいのでしょうか。
それは、いまこの瞬間をあるがままに受け入れることです。
状況から離れることも変えることもできない場合、「ここへの抵抗」をやめるのです。
受け入れるとは、消極的な態度ではなく、真の強さに裏打ちされた行為です。
受け入れの中で、思考の抵抗が消えるため、不幸で怒りに満ちた偽の自分が消え去ります。これが、心の葛藤を解消し、内なる平和へと至る道です。
思考に気づくことで同化から距離が生まれる
否定的思考を手放すとは、思考を抑圧することではなく、思考に気づくことです。
思考の仕組みを理解すると、その活動の外に歩み出ることができます。
「この思考は真実ではない」と気づいた瞬間、あなたは思考から一歩離れ、思考と自分を同一視する「同化」の呪縛が解かれます。
この「気づき」の中で、思考はパワーを失い、あなたを支配することができなくなります。
これが、苦痛を生み出している古い心のパターンから距離を置くための最初のステップです。
気づきが現れると思考の声は力を失う
「その声に気づいている私」を思い出す
自己否定の声に苦しんでいるとき、必要なのは「できる限り思考の声に耳を傾けること」です。
この声に耳を傾け続けるうちに、あなたは「独り言をする声」と、「それを聞き、観察している本当の自分」がいることに気づき始めます。
この「観察している私」こそ、思考を超えた源泉から発せられる純粋な意識、つまり本当のあなたです。
思考を客観的に眺めることで、思考と、観察している自分との間に隙間(空間)が生まれます。
この「気づき」に留まることで、あなたはもはや思考の罠にはまらず、真の自己として存在することができるのです。
自己否定の声の背後にある静かな存在
この「気づいている私」の感覚は、平和や静けさとして知覚されます。
沈黙と平和こそが、あなたの存在(Being)のエッセンスなのです。
思考活動が止まり、無心状態(思考のない静けさ)が生まれると、あなたは、普段は思考にかき消されている大いなる存在との一体感を実感します。
自己否定の声(エゴ)は、光である気づきにさらされると、その力を失います。
気づきによってエゴが静まるとき、そこに残るのは形や言葉を超えた静かな存在の感覚であり、愛、喜び、創造性といった感情を超えたものが湧き出てきます。
思考が静まるとき、心は自然にやさしくなる
思考が静まり、内なる静けさが基盤となると、私たちの心は自然にやさしくなります。
自分自身や他者をありのままに受け入れる姿勢が深まるからです。
自分を責める声に気づき、それを個人的な過失として受け止めない(個人化しない)とき、その痛みは人類全体の無意識の表現であると理解できます。
この深い理解が、真の赦しと自己への思いやり(セルフ・コンパッション)を生み出します。
自己批判の声が弱まると、私たちは自分自身を保護したり、防衛したり、養わなければならない「自分自身」という余計な関係を築く必要がなくなります。
思考のドラマが消えたとき、内側には否定でも肯定でもない、静かな受容のやさしさが広がるのです。
思考に責められない生き方へ
あなたを苦しめているのは、あなた自身ではなく「思考の声」です。
その声を信じる代わりに、ただ気づいてください。
「気づいている私」が目覚めると、思考はあなたを支配できなくなります。
そこに現れるのは、否定でも肯定でもない――静かな受容のやさしさです。
思考に抵抗せず、あるがままの「いま」を受け入れること。
それこそが、エゴの檻から解放されるための唯一の道なのです。
「今この瞬間」を受け入れると、どんな出来事にも動じない心の平安が得られます。
エックハルト・トール
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